家主が地主として栄えた明治15年に、飛騨の匠の技を受け継ぐ名工川尻治助によって建てられ、玄関に足を踏み入れると客人をまず迎え入れるのは豪快な梁組。大指木,差鴨居、大黒柱の構成で支えられており、太い大指木は直径90Cm、長さ8mと飛騨では最大級のスケールです。 | |||
現在ギャラリーの二階は昭和初期までは蚕を飼育する部屋で全体がスノコ床になっていて、いろりの煙が上がり防腐効果になっていました。 | |||
昔ながらの懐かしい磁石式電話と手押しポンプも体験できます | |||
現在でも囲炉裏を活用してます。 囲炉裏の自在鍵はなぜ魚なのか? それは水の中にいるので火事を防ぐ意味と魚は目を開けて寝るので火の番をしてくれる意味もある。 |
|||
平成19年2月22日高山市指定文化財 田上家住宅 附板図及び土蔵棟札 主屋 明治15年着工 土蔵 安政6年 |
|||
高山市丹生川町根方(ごんぼ)にある農家建築で、田上家当主田上太郎四郎が、明治12年に高山の日下部邸(国指定重要文化財)を完成させた棟梁川尻治助に依頼して建てさせたものである。着工は明治15年(1882)で、完成までに12年の歳月を要したといわれる。明治15年の年号入りの板図や、川尻治助が使用した大工道具も残されており、建設当初の事情が明らかである。 主屋は桁行12間半(23.30m)、梁間7.5間(13.72m)と大規模な農家である。建物は、木造二階建、切妻造、平入、屋根は現在瓦葺きであるが、当初は榑板葺きであったと思われる。主屋正面は真壁のデザインを基調としつつも隅切り窓を入れるなど、近代に入ってからの様式も取り入れているほか、大きく屋根と小庇がせり出し、屋根の軒はせがい造りとしている。出桁を受ける腕木は「雲」と呼ばれる意匠を施した持ち送りが支えているが、これは昭和初期に活躍した、大工稲尾三郎の仕事である。 玄関を入り土間に立つと、一尺角の大黒柱と、四間ものと呼ばれる松の巨木を使った豪快な梁に圧倒される。右手に「マヤ」、左手には囲炉裏のある「オエ」があり、「オエ」の奥には仏間、そして本座敷という構成になっている。囲炉裏の上は根太天井が設けられている。本座敷からは庭が眺められるようになっており、座敷の上には二階が設けられていない。座敷を最も格上の部屋とする配慮からであろう。本座敷には付書院を持った本式の床の間があり、黒漆塗りの床框、違い棚といった設(しつら)えがしてある。その他にも欄間の透かし彫りや襖絵など、山間の農家とは思えない贅を凝らした造りとなっている。 主屋東側に隣接して建つ土蔵は、安政6年(1859)銘の棟札が残されており、屋根葺材はやはり榑板から瓦に改められてはいるが、蔵前の空間を持ち、3間四方の比較的こじんまりとした大きさなどが、当地方の古い様式の土蔵であることを感じさせる。 当建物は、施主の豊富な経済力を背景に近代までに蓄積された高度な建築技術が十二分に発揮されて作られた建物である。国指定重文「日下部家住宅」とほぼ同じ時期に同じ棟梁によって建築されたものであり、改造も少なく、文化財としての価値は高い。 高山市文化財HPより |